22年度総会 3月26日(土) アスト津⑦⑧

 午前中は総会。簡単な自己紹介のあと、21年度の反省と会計報告、22年度の活動方針を審議し決定しました。

 21年度から事務局が若手に引き継がれましたが、例会・通信・事務局の三本柱を大切にする取り組みが続けられています。広島フィールドワークなど斬新な取り組みもできました。

 

 午後は記念講演。今年は小川秀幸さん(三重テレビ放送報道制作局長)「報道制作の現場から」というテーマでお話をして下さいました。

 小川さんは事務局から要望したテーマに沿って、この仕事を選んだきっかけ、大切にしていること、悔しかったことや嬉しかったことなどを語って下さいました。とてもわかりやすく、熱い思いが伝わってくるお話でした。「人生は交換できないし、返してもらえない。戦争もハンセン病も、同じ間違いを繰り返さないで欲しいと経験者は異口同音に語る」「戦争や差別を経験した人が確実に減っている。伝えるためには人、施設、報道が大切」という言葉も心に残りました。

 小川さん、どうもありがとうございました。

午前の総会
午前の総会

 小川さんはこれまでに、伊賀の中学校が初めて取り組んだ沖縄修学旅行を取材した「命どぅ宝」、朝鮮半島出身者の戦後補償問題に切り込んだ「置き去りの日本兵」、四日市公害をテーマにした「コッコの空」などを手がけ、ハンセン病については何本も作品をまとめられています。それらの作品のダイジェスト版を見せてもらうと、小川さんの問題意識が私たち歴教協と重なる部分が多いと感じました。作られた番組にも、奇しくも三重歴教協の会員がたくさん関わっていました。


地域での学習会① 4月29日(金) 四日市

じばさん(旧 じばさん三重)2階活動室

 全国大会レポートから学び、現地見学をする「地域での学習会」。今年は11本のレポートが全国大会に出されますので、4回開催します。

 第1回は四日市。2本の報告から学びました。

 

「立ち上がる市民」(三鈴支部 萩森繁樹さん)

 コンビナート企業に顔を向けた四日市市政に対抗して「公災害市民ネット」を運営されている萩森さん。鈴鹿でも、青少年の森を壊してサッカースタジアムを造る問題が急浮上したそうです。

 萩森さんの話をお聴きして、どちらも市民に説明せず、強引に進めるところは同じだなと思いました。私たちも発信していかなければならないことを痛感しました。

「世界史の授業で「本」を使用し授業の共同をする」(三鈴支部・中嶋千絵さん)

 初めて高校で教壇に立ったという中嶋さん。同じ世界史を教える者にとって「すごいなあ。」の一言でした。昔話から戦争の背景を考えさせたり、配布した教材を読み取りまとめたりする取り組みは、高校にいる私たちにとって意義深いものであり、自分もやってみたいと思わせてくれるものでした。

 

 なお、午後のフィールドワークは四日市公害と環境未来館を予定していましたが、参加者の都合がつかず中止しました。

地域での学習会② 5月29日(日) 員弁

 賀毛神社社務所(いなべ市北勢町治田)で今年も開催できました。神社では栴檀やユキノシタなど季節の花が迎えてくれました。

 午前中はこの夏に報告される全国大会レポート3本から学びました。

「地域の歴史講座 五代アイと治田鉱山・青い目の人形」      (桑員支部・民上眞由美さん)

 いろいろなゲストティーチャーで活躍されてきた民上さんが今取り組んでいるのは自ら発信する歴史講座。これまでの調査から8つのテーマを作られて

民上さん
民上さん

「『ふたりのももたろう』でハンセン病を学ぶ」

(三鈴支部 伊藤千手子さん)

 9年前から長島愛生園を訪ねている伊藤さん。そこで学んだことをコロナにつなげて子どもたちに投げかけた実践です。絵本『ふたりのももたろう』では「おにがしま」を成敗するももたろうと、鬼とともに「にじがしま」を作るももたろうが対比され、「どちらがめでたしめでたしなのか」を考えます。

伊藤さん
伊藤さん

「四日市が原爆投下の練習台に」

(桑員支部 早川寛司さん)

 全国に49発落とされた模擬原爆パンプキン。そのうち5発は詳細不明でしたが、四日市に落とされた1発を掘り起こしたのが早川さん。全国的なニュースになりました。それを平和教材として練り上げた報告です。

 丁寧に作られた授業プリント、詳細な授業記録によって、授業の様子や子どもたちの表情がとても良く伝わって来て、レポートをまとめる典型の一つだと感じました。「日本国憲法は戦争の痛切な反省から生まれた」という言葉も大切にしたいです。

 

午後のフィールドワーク

 午後はいなべ市藤原町と、その北の大垣市上石津町(岐阜県)に残る関ヶ原の戦いで敵中突破をした島津隊の遺跡を中心に見学をしました。

 上石津郷土資料館・西高木家陣屋跡では、陣屋の当時の建物が現存し、石垣も見事で城郭そのものです。資料館では高木家のほか、島津隊や薩摩藩の歴史を学びました。入館料は破格の100円でした。 

鼎塚で
鼎塚で

 昭和音楽村(上石津)の江口夜詩記念館にも行きました。江口夜詩は「憧れのハワイ航路」などで知られる作曲家で、上石津出身だそうです。「月月火水木金金」などの軍歌も作っていますが、戦争中に作って発売禁止になっている曲もあり、興味をもちました。

 昨年の東海ブロック集会では関ヶ原で多くを学びましたが、今回はその続編でもあり、何より身近な地域でこんなに魅力的なものが残っていることがわかりました。

 桑員支部の阪井さん、民上さんたちの掘り起こしの成果です。どうもありがとうございました。

います。今回は2つの講座を紹介して下さいました。昨年の大河ドラマにつなげて、五代家が開発した治田鉱山、渋沢栄一が中心になった「青い目の人形」です。どちらも地域での調査と全国の歴史をつなげた歴教協らしい内容でした。

 地域だけでなく遠方からも参加者があり、2つの講座の参加者は113名だそうです。とても素晴らしいライフワークです。

治田鉱山の資料もたくさん展示されていました
治田鉱山の資料もたくさん展示されていました

 その後、ハンセン病について子どもたちに合う発問をしながら深めていく伊藤さん。愛生園で開催される地域一緒の夏祭りの写真を見て、子どもが「にじがしまになった」と言ったのは感動的でした。

早川さん
早川さん
パンプキンの実物大画像。迫力満点です
パンプキンの実物大画像。迫力満点です
西高木家陣屋跡
西高木家陣屋跡

 関ヶ原から逃れた島津隊は上石津や養老を越え、近江から大和に抜けています。今回は島津豊久の墓鼎(かなえ)塚を見学しました。鼎塚は島津隊の墓と言われていて、いなべ市藤原町にあります。毎年夏休みに鹿児島からここへ「少年踏破隊」が来ることには驚きました。 

江口夜詩記念館
江口夜詩記念館

地域での学習会③ 6月19日(日) 津

 アスト津3階の市民交流スペース⑧で開催。10時からの2時間で、3本の全国大会レポートから学びました。

 

「戦争の記憶を受け継ぐ」      

(高校支部・小澤真夕さん)

 顧問をされていた放送部の生徒が「変な穴があるけど知ってますか?」と尋ねてきたことから勤務校に残っていた防空壕と出会い、生徒たちと調査を行い、映像作品にまとめていった取り組みです。防空壕についてまとめた2本の作品はどちらも全国大会に選ばれ、全国でも評価されました。

防空壕につけられた看板
防空壕につけられた看板

マップ作りから、行政が戦争遺跡に関心をもち、今後10年で主な戦争遺跡に説明板を設置すると表明したことなど、これまでの活動が広がりを見せていく様子を報告して下さいました。

 発信をすることで調査が進むこと、調べた結果だけを伝えるより、一緒に経過を経験することで意欲的になれることが大切と学びました。

 

「受け継がれてきた命」      

(津松阪支部・草分京子さん)

 異動した学校で6年生の担任となった草分さん。様々な課題をもつ子どもがいるクラスで、校区の先人である在間尚龍(幕末から明治にかけて活躍した医師)を取り上げ、幾多の感染症を乗り越えてく様

草分さん
草分さん

 放送部から全国に呼びかけて「防空壕保存プロジェクト」を立ち上げ、ガーデニングコースの生徒が木々の伐採や遊歩道づくり、環境保全コースの生徒が防空壕の看板づくりをするなど、見事な取り組みでした。

 

「亀山の列車銃撃と戦争遺跡 その調査と継承」      

(三鈴支部・岩脇 彰さん)

 亀山の列車銃撃の説明板設置により、地域の方の協力を得て、列車銃撃犠牲者のご遺族とつながり、多くの情報が明らかになる様子。亀山市の戦争遺跡

亀山で作られた戦争遺跡マップ
亀山で作られた戦争遺跡マップ

子を学ぶ実践です。子どもたちの感想から「歴史を学ぶことは、受け継がれてきた命に気づくこと」だと気づかされたという言葉が大変印象的でした。

 コロナで翻弄されている時に、感染症対策に取り組んだ地域の先人を教材化して学習し、そこからクラスの課題についても考えていく視野の広い授業づくりの技術はさすがでした。

 

「地域に根ざし、地域を変える」という歴教協の大切なスローガンを、それぞれに具体化していた3本のレポートでした。小澤さん、岩脇さん、草分さんどうもありがとうございました。 


原発に関する学習会(授業づくり講座①)

6月19日(日)13:30~16:00   アスト津3階⑧

 福島原発事故の被害、原子力発電所の危険性を忘れてはいけない。きちんと知って子どもたちと考えていきたい。三重歴教協では毎年、原発・放射能についての学習会を毎年開催しています。

 今回は2つのテーマで学習しました。

①「副読本のウソとホント」

 

 文科省が発行した小学校向けの『放射線副読本改訂版』。この内容をそのまま子どもたちに教えて良いのか? そんな疑問から、柴原洋一さん(原発おことわり三重の会)にお願いして、副読本の問題点を分析して語って頂きました。

 柴原さんのお話をお聞きして、放射線がいかに恐ろしく死に直結するものであるか、今の帰還政策でいいのかなど、具体的な数値で知ることができました。副読本に書いてないこと(隠していること)をきちんと子どもたちに伝えたいです。

徳永さんのお話
徳永さんのお話
柴原さん
柴原さん

 柴原さんも副読本を読んでモヤモヤとして気持ちをもたれたそうです。そしてモヤモヤの理由を分析して下さいました。

②「報道と真実」

 

 柴原さんが『NAGI 凪』で連載されている「原発のない町で」は、三重に移住されている福島原発事故の被害者の生き様や語りを通して、福島の事故が一人ひとりの生活をどれだけ破壊し、その責任や補償がいかになされていないかを伝えている貴重なルポです。その第7回に登場された徳永紀江さんがお話をして下さいました。

 埼玉県で子どもたちを高線量から守るために学校や行政と闘ってきたこと、子どもたちを守るために移住を決意した時のこと、闘いの中で思ったり考えたりしたことを、たくさん語って下さいました。


「将来子どもたちに『何で移住しなかったの』と思わせたくなかった。」「埼玉に(してきたことや仲間等)すべてを置いてきた。久しぶりに埼玉に行き、思いっ切り笑った。移住してから思いっ切り笑ってなかったことに気づいた」「(放射能について)知ると怖くなるから、これ以上言わないでと言う人もいた」「納得がいかないのに黙って暮らすことで、聞き分けのいい国民になってしまう。たくさんの人生を狂わせたことを、国は謝って欲しい」などなど、胸に迫る言葉をお聞きしました。チェルノブイリ法のように、移住しても被災地に残っても治療・保養・補償がされるような法律を作らなければいけないと感じました。

 柴原さん、徳永さん、どうもありがとうございました。

地域での学習会④ 7月3日(日) 松阪

 全国大会レポートから学び、地域を巡る「地域での学習会」。今年度最後は久しぶりの松阪で、会員の原田さんのご自宅で開催しました。

 原田邸は、登録文化財になりそうな重厚なお屋敷で、いつも訪ねるのが楽しみです。

 午前中は3本の全国大会レポートから学びました。

 

「1953年9月25日 台風13号災害碑について」

(伊勢志摩支部・新田康二さん

 1959年の伊勢湾台風は三重県に大きな風水害をもたらしましたが、その被害は三重県の北部に集中していました。なぜ県南部の被害が少なかったのか。「その理由は1953年の台風13号だ」と新田さんが明快に話して下さいました。

 この台風13号は伊勢湾台風と同じぐらい強力な台風で、熊野灘を北上して志摩半島を横断しました。満潮とも重なり、高潮で海岸線が壊滅し、未曾有の大被害になったそうです。

 この台風被害の後、県南部では堤防工事が進みました。県南部の工事が完了し、北部の建設途中に伊勢湾台風が襲来しました。県南部の被害が少なかったのは堤防が完成していたからだと新田さん。 


 新田さんは地域をくまなく歩き、台風13号の災害碑や堤防の復旧記念碑を調べ、その成果も報告して下さいました。ものすごい悉皆調査です。

 

 また、この台風で宇治川が決壊したことで、伊賀市に遊水池ができたという話も面白かったです。枚方市にある水位標がレッドラインに達すると、その上流の伊賀で濁流を遊水池に流し込んで洪水を防ぐそうです。

「遊水池は、1854年の伊賀上野地震でくぼんだ土地に作られた」と新田さん。地域の施設がさまざまな歴史的経過をもっていることを感じました。

「被害を受けた人は覚えているが、受けなかった人は忘れてしまう」

という新田さんの言葉も印象的でした。

「津田三蔵について」

(伊勢志摩支部・大西孝明さん)

 昨年に引き続き、大津事件について調べた大西さん。今年は津田三蔵の人物像に焦点を当てた報告でした。

 伊賀市の大超寺に津田三蔵のお墓がひっそりとあります。あまり知る人もないことですが、三重県の貴重な教材です。大西さんによると、津田三蔵は藤堂藩の御典医の次男として江戸の上屋敷で生まれ、幕末は家族と伊賀で暮らしたそうで、そのことから藤堂藩に強くつながっている大超寺にお墓が作られたのでしょう。

 津田三蔵がなぜニコライ2世にサーベルで切りつけたのか、津田三蔵はどんな人物だったのか、大西さんはさまざまな資料から津田三蔵の人物像を掘り下げていきました。

 面白かったのは、津田三蔵は西南戦争で左手に銃創を負い、翌年に精神を冒され入退院を繰り返していたことから、PTSD(心的外傷後ストレス障害)ではなかったのかという指摘でした。もともと思い込みが激しく頑なな性格だったことはよく語られますが、PTSDがそれを増幅させた可能性は十分に考えられることです。大津事件のような突発的行動もそれで説明できそうです。

 一人の人物を深めることで、その時代の背景や姿が見えてくることがあります。大西さんの研究もそれに近づいていると感じました。

「言葉と文字が開いていく可能性」

(津松阪支部・原田聡子さん)

 特別支援学級の外国籍の子どもとの一年間を、言葉と文字の習得のようすを軸に報告してくださいました。

 

 外国につながる子どもたちの学習や生活面のつまづきは、低学年の段階では、言葉の習得の問題なのか、文化の違いの問題なのか、発達の問題なのか、その全てに課題があるのか…判別しにくいことが多いです。

 原田さんは、子どもとたくさん話をし、生活のようすを知り、家庭とつながる中で、その子の言語理解の不十分さがどこからきているか分析し、必要だと思われる指導・支援をしてみえました。

 学校内だけでなく、福祉の力や地域の力も借り、総力戦で子どもや家庭と向き合ってこられたということがわかりました。日々学校の仕事や子どもと向き合っていると、どうしても自分で解決しようと、学校内で解決しようとしてしまいがちですが、「わからないことは聞く」「自分より詳しい人に頼る」ことがいかに大切か、改めて教えていただきました。原田さんが奔走され、惜しみなく力を注いだことで子どもが成長したのだということがわかる、素敵な実践でした。

午後のフィールドワーク

 午後からは、大雨の中、フィールドワークでした。

まずは、今年5月にオープンしたばかりの私設美術館・サイトウミュージアムを訪れました。南勢病院の精神科医であった、齋藤洋一さんが集めた作品が展示されています。

 齋藤家は代々医者の家系であり、洋一さんは生まれたときから医者になることが宿命づけられていました。しかし、絵を描くことが好きであったために、医者になってからも、三重県にゆかりのある作者の作品をはじめ、「先入観なく、いいなと思ったもの」を購入しコレクションするようになったそうです。

 

展示の仕方が工夫されており、風景画の作品説明のQRコードを読み取ると、Googleストリートビューで現在の風景が見られるというしかけもありました。

 続いて、4月にリューアルされた松浦武四郎記念館へ。

 

北海道の名付け親として知られる武四郎は、旧伊勢街道沿いの家に生まれました。小さい頃から道を行き交う旅人たちの姿を


目にしており、その影響で自分も旅を志します。

 記念館の中は武四郎の生涯を順に追っていくような展示になっており、旅先でのエピソードや、なぜ蝦夷地に渡ることになったのか、アイヌ民族とどのような交流があったのかなど、説明がされています。

 写真やイラストが増え、説明板がとても読みやすくなっていました。武四郎の一畳の書斎がの復元模型があり、柱の傷や天井に描かれた竜の絵なども忠実に再現されていました。

 初めて武四郎記念館を訪れた会員もおり、有意義な時間となりました。

ご参加ご協力ありがとうございました!

歴史教育者協議会 第73回 愛知/東海大会 8/6~9

 愛知を中心に東海5県で開催することになった愛知/東海大会。その準備のために第1回5県会議を開催したのが18年4月。20年に開催予定がコロナのために2年延期になり、ついに開催できました。

 対面式の大会も3年ぶりで、全国の皆さんと久しぶりにお会いできたのも嬉しかったです。

 オンラインでつながる良さもありますが、皆さんの反応がよくわかりますし、その場に実際に流れる空気感や雰囲気は対面式でないと感じられません。

 皆さんの努力で無事に開催できて良かったです。

閉会集会で5県の皆さんと
閉会集会で5県の皆さんと

 現地見学の四日市コースでは萩森さんが熱弁をふるわれ、公害資料館ではボランティアガイドとして早川さんも登場。三重のメンバーでバスの中のスタッフや、お弁当手配の伴奏車も分担できて、全員で盛り上げる事ができました。

 5日の準備から9日の現地見学まで、それぞれに走り切れた5日間になりました。参加するだけでなく大会の運営も学べ、次のステップになる大会になって良かったです。

 

全体会会場の講堂。萩森さん作成の看板がすばらしい。
全体会会場の講堂。萩森さん作成の看板がすばらしい。

 三重のメンバーは現地スタッフとして、大会前の会場設営、朝早くからの受付準備、終了後のトイレ掃除など、地元愛知の皆さんと一緒に協力できました。朝早くから夜遅くまで、たくさんのご協力を頂き、本当にありがとうございました。

 また、三重から出された大会レポートは11本。東海ではもちろん、全国でも本数ではトップクラスでした。「地域に学ぶ集い」では、「次代に語り継ぐ四日市公害」を早川さんが、「災害碑が語り伝える命のメッセージ」を新田さんが担当されました。 

四日市フィールドワーク
四日市フィールドワーク

水俣病についての学習会

8月12日(金)16時~ 津リージョンプラザ

 津リージョンプラザで毎年開催されているフォトジャーナリズム展三重。今年は「今を生きる私たちと水俣」をテーマに桑原史成さんの「水俣病 命の記録」を始めとする作品、豊田有希さんの「あめつちのことづて」、相思社のパネルなど、水俣病についてすばらしい展示をされました。

 事務局の方のお計らいで、三重歴教協も会場をお借りして学習会をしました。

 当初予定していた永野三智さん(水俣病患者連合事務局長)が体調不良により来れなくなり、葛西伸夫さん(相思社)の動画を視聴した後、坂本一途さん(相思社)との懇談に変更しました。

坂本さん
坂本さん

 そして坂本さんとの懇談会では、高齢になって急に症状が出たり、ひどくなったりするなど、今でも患者さんが出ていることに驚きました。今日的な課題を四日市に重ねながら考えることができました。

 坂本さんのような若い方がしっかり引き継がれていることもすばらしいと感じました。

葛西伸夫さんの動画を見る
葛西伸夫さんの動画を見る

 葛西さんの動画は、戦前のチッソが朝鮮半島で財閥化した過程と、戦後に水銀を流すようになった背景をわかりやすく語って下さり、とても良かったです。国とチッソが一体だったこと、水俣の人を犠牲にできた源流は植民地支配にあったことがよくわかりました。

フォトジャーナリズム展の会場をお借りしました。
フォトジャーナリズム展の会場をお借りしました。

 坂本さんどうもありがとうございました。また、水俣でお会いしたいです。


津フィールドワーク 9月17日(土)

 当初は9月に授業づくり講座を予定していましたが、都合で1月に変更し、1月に予定していた津フィールドワークを先に行いました。

 津市に残る空襲遺跡を中心に見学し、津の空襲と、そこから何を学ぶかについて学習しました。

 ひょうたん池の学徒動員生徒慰霊碑の後、橋北中学校水難事故慰霊碑へ。水難事故は戦争とは無関係でしたが、空襲の悲惨な記憶や伝承からデマの「亡霊話」として世間に広がりました。希望があり、水難事故現場に立つ「海の守り」像も、予定外に見学しました。

半田の地下工場跡
半田の地下工場跡

 続いて神戸地区に残る、爆死した教員の慰霊碑、爆弾痕が残るレンガ塀、神戸乃神社の弾痕と3つの慰霊碑を見学しました。爆死した教員のお孫さんが四日市にお住まいで、なんと参加者の教え子でした。そしてその子は夏休みの自由研究でこの空襲や模擬原爆パンプキンを詳しく調べたそうです。思いがけない出会いでした。

当時の空襲の体験談を聞く
当時の空襲の体験談を聞く
「海の守り」像
「海の守り」像

 塔世橋の被爆欄干の後、半田の地下工場へ。

 所謂「半田の地下工場」には、三菱重工業が作った久居地下工場と、住友金属や津海軍工廠が入った半田地下工場の2ヶ所が含まれますが、今回は久居地下工場の一部を見学しました。ごく一部ですが、地下工場の雰囲気はよくわかりました。

弾痕が残るレンガ塀
弾痕が残るレンガ塀

 被爆した寒松院の藤堂藩墓石を見てから、爆弾で壊された門柱と、爆弾痕らしき痕が残る憲兵隊の塀を見学しました。門柱では、1945年7月24日の爆弾による空襲について、お話を聞かせてもらいました。空襲遺跡で体験談を聞けるのはここだけで、とても貴重でした。

 主な津の空襲は4回。それぞれに空襲の悲惨さを物語る戦争遺跡が残されています。空襲の記録を調べて発信し、行政に働きかけて戦争遺跡を保存した歴教協の先輩たちの素晴らしい活動について振り返ることもできました。


京都フィールドワーク 10月8日(土)

 10時にウトロ平和祈念館に集合。案内して下さるのは平井美津子さん(大阪歴教協)と本庄 豊さん(京都歴教協)。『観光コースでない京都』(高文研)の著者お二人が講師という贅沢なフィールドワークでした。

金 秀煥さんのガイダンスを聞く
金 秀煥さんのガイダンスを聞く

 それからウトロ地区を見学。昨年放火された現場も生々しく残っていました。「火をつける前に家に来て話をしてくれたら良かったのに」というウトロの方の言葉も心に残りました。

再開発が進むウトロ地区を歩く
再開発が進むウトロ地区を歩く

 午後は乃木神社のあと明治天皇陵へ。必要以上に広い敷地と長い石段を体感しました。秀吉の伏見城の主要遺構はこの墓のせいで見学できなくなっていることも知りました。

明治天皇陵までの長い石段。
明治天皇陵までの長い石段。

 そして耳塚へ。秀吉の朝鮮出兵でそぎ落とした鼻を埋めてあると言われます。ここには何度も来ましたが、周囲の石柵に注目するのはさすが歴教協。石柵に明治の歌舞伎役者や川上音二郎などの名前が刻まれている理由も教わりました。

巨大な「国家安康」の鐘
巨大な「国家安康」の鐘
ウトロ平和祈念館の前で
ウトロ平和祈念館の前で

 ウトロ平和祈念館では副館長の金 秀煥さんが詳しく展示の説明をして下さり、日本の植民地政策や戦後の理不尽な政策がよくわかりました。そして、これからの方向性や希望についても学べるので、修学旅行のコースにぜひ入れたいと思いました。

放火された現場で
放火された現場で

 ウトロ地区は日韓市民や韓国政府が一部の土地を買い上げ、宇治市も協力して集合住宅などの再開発が進んでいます。今までの良さを残しながら、新しい歴史を刻むのを、一緒に見つめていきたいです。

明治天皇陵
明治天皇陵

 戦前は天皇制ファシズムの「聖地」として修学旅行のコースにされていた明治天皇陵。地元歴教協のおかげで、この長い石段を登らずに、伏見城の石材を見ながら見学することができました。

耳塚の周りの石柵に注目
耳塚の周りの石柵に注目

 耳塚近くには豊国神社があり、有名な「国家安康」の鐘があります。その字の部分をわかるようにしてもらってありました。何よりその巨大さに驚きました。

 とても楽しく充実した現地見学でした。平井さん、本庄さん、どうもありがとうございました。


東海ブロック集会(松本) 11月19~20日

 東海5県(愛知、岐阜、静岡、長野、三重)で持ち回りで開催している東海ブロック集会。今年は長野歴教協で、松本市を会場に開催されました。

 11月19日(土)の14時に「松本市歴史の里」に集合して、移築された歴史建造物を見学しました。市民がデモをして残した1908年の裁判所庁舎は、今は国の重要文化財に指定されています。他に「ああ野麦峠」を連想する製糸場や工女宿、社会運動家の木下尚江が生まれた武家屋敷を見学しました。長野県は百姓一揆の数が全国一、寺子屋と公民館も全国一多いというお話も心に残りました。


 松本市浅間温泉の「みやま荘」に移動して、長野歴教協の桂木 恵さんの「軍事郵便にみる日露戦争の実相」というすばらしい研究発表を聞きました。桂木さんは地域に残っている軍事郵便を丹念に読み解き、そこから当時の庶民の生活や戦争への思い、戦争を支える国や地域のシステムなど、多彩な事実を話して下さり、とても刺激になりました。三重でもこういった研究を進めたいです。

 その後、各県の状況や取り組みなどを交流しました。夕食会では会話もはずみ、21時まで3時間近く県を越えての交流ができました。

 2日目は車に分乗して松本市内の戦争遺跡を見学しました。案内して下さったのは平川豊志さん(松本強制労働調査団)です。

 最初は美須々(みすず)公園。当時ここは陸軍墓地で、今もたくさんの遺構が残っています。平川さんは中学生をここに連れて来て、戦争に関係するものを探させるそうです。公園は今も土塁で覆われ、軍事施設の雰囲気を残していました。

 中でも目を引くのが納骨堂跡。納骨堂と聞くと、ハンセン病療養所を思い出しますが、戦死した軍人も国のために接収されたと知りました。兵士は故郷の墓に埋葬されることを望んだでしょう。

美須々公園の納骨堂跡
美須々公園の納骨堂跡

 信州大学構内に残る松本歩兵第50連隊の赤レンガ倉庫を見た後、里山辺(さとやまべ)の地下壕へ。名古屋三菱航空機会社の疎開工場です。工事途中に敗戦になり、地下壕は工事を中断したままの状態で残っています。ヘルメットをかぶり、懐中電灯を持っての見学でした。

地下壕の内部。気を抜くと頭を打ちます。
地下壕の内部。気を抜くと頭を打ちます。
信州大学内の赤レンガ倉庫
信州大学内の赤レンガ倉庫

 驚いたのは地下壕掘削の基準杭や、壁面に残る「30米(メートル)」「130M」「出張所」「熊谷組」などの文字。さらにトロッコレールが一部完全に残っている所があったことです。このような遺構まで残っている地下壕は、全国にもほとんどありません。


 地下壕内に書かれた文字のなかで特異だったのは「天主」です。地下壕工事には7000人の朝鮮人労働者が動員されたことがわかっています。キリスト教を信仰する方が多い朝鮮人労働者は、この場所でお祈りをして工事の安全を願ったのかも知れません。朝鮮人労働者は「出張所」という文字の所で点呼を取られていたという話も聞きました。

2日目朝の集合写真
2日目朝の集合写真
「天主」の文字。
「天主」の文字。

 予定通り12時過ぎに全日程を終了しました。すばらしい企画を用意して下さった長野歴教協の皆さま、本当にありがとうございました。

 来年は静岡。今から楽しみです。


伊勢フィールドワーク  12月3日(土)

 12月3日(土)に伊勢フィールドワークをしました。案内して下さったのは、岩脇 彰先生、山下千束先生。2002年の三重大会の現地見学のコースをもとに「観光コースではない伊勢神宮」をめぐりました。

 まず訪れたのは、伊勢市二見町にある御塩殿(みしおでん)神社と御塩殿。字が表す通り、伊勢神宮の神事に使う塩を作るところです。

 神社の奥に、塩田で採れた塩水を製塩する建物がありました。御塩汲入所と御塩焼所です。御塩焼所は天地根源造りとよばれる建物で、初期の合掌造りに似ている建物だそうです。

 現在でも、昔と同じ製法で製塩されるそうで、夏の暑い時期に窓も煙突もない中、窯で塩水を蒸発させるそう。茅葺屋根だとはいえ、話を聞くだけで室内での作業は大変なものだということがわかります。昔は塩田が横にあったのだそうですが、塩の味が濃くなってしまったために、五十鈴川の近くに移されたのだそうです。

正面が御塩焼所、右が御塩汲入所。
正面が御塩焼所、右が御塩汲入所。

御塩殿神社のご正殿
御塩殿神社のご正殿

 御塩殿神社を見学している際に教えてもらったのは、神社の建築様式によって内宮関係の神社か外宮関係の神社か見分けられるということです。これは、内宮の御正殿と外宮の御正殿の建築様式が異なるためで、三重県に住んでいながら、全く知りませんでした。

 御塩殿神社は千木が地面と平行な「内削ぎ」なので、内宮関係の神社だということがわかります。ちなみに、千木が地面と垂直な「外削ぎ」だと外宮関係の神社だそうです。他にも、鰹木の数が偶数だと内宮、奇数だと外宮という違いもあります。また、御塩殿神社は唯一神明造と呼ばれる建築様式で、伊勢神宮以外の他の神社がこの造りにはできないのだそうです。

 これらのエピソードから、内宮と外宮の間にある争いの歴史も垣間見れました。新たに知ることがたくさんあり、とても面白かったです。

 五十鈴川の近くにある御塩浜(みしおはま)では、土用の頃に水を入れ、夏の暑さを利用して濃い塩水を作ります。できた濃い塩水(鹹水・かんすいというそうです。初めて知りました)は、御塩殿へと運ばれます。

 御塩浜の周りには水路があり、城のお堀のようになっていました。一見するとただの広場のように思いますが、ちゃんと鳥居が建っていました。造りは神明鳥居で、伊勢神宮に関係がある場所だということがわかりました。

<内宮>

 宇治橋を渡る手前の広場に、国旗掲揚台があります。実はこの掲揚台、伊勢神宮の関係者が建てたも

宇治橋のしがらみ
宇治橋のしがらみ

り込まれてしまったのだそうです。

 橋を渡りきったところには砂利道が広がっています。ここは元々、御師という人々の家が並んでいたのですが、明治に入ってから、神域を拡大するために家を撤去してしまったのだそうです。御師というのは、現代でいうと旅行会社のツアーコンダクターのような仕事で、当時流行したお伊勢参りの際に活躍したそうです。宇治橋から火除橋までの、建物を撤去してできた敷地を「内宮神苑」と呼びます。砂利道の左右の端に、大きさの違う石が埋め込まれて、まるで白線が引かれているかのようになっています。これは、かつてここまで建物(御師の家)があったことを示しているそうです。ちなみに、火除橋は民家で起こった火災が神宮へ燃え広がるのを防ぐためにできたそうです。

 

斎館・行在所の入り口
斎館・行在所の入り口
五十鈴川のそばにある御塩浜
五十鈴川のそばにある御塩浜

のでも、神社庁が建てたものでもないのだそうです。「国旗掲揚台を建てたい団体」の方が設置したそうな…。設置の経緯を知る人が減った今では、掲揚台をそのまま利用しているのだそうです。

 宇治橋を渡ると、右側に木でできた柱のようなものがあります。「なんだろうな」と思って通り過ぎていましたが、実はこれ、流木をせき止めるための「しがらみ」というのだそうです。橋が流木で壊されたり傷ついたりしないよう、橋の上流側に設置されていました。

 橋を渡り、子安神社に参拝しました。江戸時代までは、安産の神として地域の人々に信仰されていたされていましたが、明治時代に、伊勢神宮の中に取

日除橋の手前、建物があった場所を示す
日除橋の手前、建物があった場所を示す

 火除橋の向こうに、鳥居が見えます。「一の鳥居」と呼ばれており、江戸時代にはこの橋から向こうが神域だったそうです。橋の手前に「トイレはこの先ありません」という看板がありましたが、「なるほど、神域だったからないのね」と納得しました。

  一の鳥居をくぐると、左側に斎館、行在所という建物があります。斎館は神職が体を清める場所、行在所は天皇・皇族が来た時に利用する場所だそうです。いつも何気なく横切っていた建物の謎が解けました。ちなみに神域内にある建物だからか、トイレはなく、おまるを使って用を足していたのだとか…。


 正宮に向かって足を進めると、五十鈴川が見えてきます。そのほど近くに、滝祭神があります。この神社は古代からの信仰の形であるアニミズムを伝えるもので、社殿もなく、石がご神体として祀られています。柵で囲まれてはいますが、伊勢神宮内では、ご神体が見ることのできる唯一の神社だそうです。 

 

 さらに歩を進めると、僧尼(そうに)遥拝所(ようはいじょ)に続く道の痕跡をみることができます。僧尼遥拝所とは、僧や尼が川の対岸から神宮を遥拝するための場所です。江戸時代、僧や尼は一般の人と同じように参拝することができなかったために、このような祈りの場所が作られたのだそうです。(現在は立ち入り禁止とのこと) 

<おはらい町、おかげ横丁>

 観光で伊勢神宮・内宮を訪れる際、必ずといっていいほど立ち寄るのがおはらい町です。赤福本店や伊勢うどんのお店、老舗のお土産屋さんが建ち並ぶ「古き良き街並み」の門前町ですが、実はこの街並みは30年ほど前に再開発されてできたのだそうです。そんなこととはつゆ知らず、友だちを案内していたなあ…と複雑な気持ちになりました。創られた「古き良き町並み」ですが、再開発のおかげで街に活気があふれ、商売が成り立つようになったのならば、地元の人にとっては良いのかな?とも思いました。                        

<とび石>

 五十鈴川沿いを南に向かって車を走らせたところに、とび石があります。とび石を渡った対岸から道を進んでいくと、僧尼遥拝所の近くに出るのだそうです。このことから、このとび石は、仏教関係者が宇治橋を避けて参拝に訪れるための道だったとする説もあるそうです。とび石を渡って対岸に行くことはできますが、対岸から先は通行禁止になっています。川は穏やかで澄んでいて、夏には地元の人々が涼みに訪れるのだそうです。

 

<今回のフィールドワークをふりかえって>

 県北部にすんでいることもあってか、私の中で伊勢神宮は県外から友だちが来た時に案内する「観光地」という認識でした。それを「観光地ではない」

とび石
とび石

角度から案内していただき、とてもおもしろかったです。

 初めて知ったこともたくさんあり、特に、明治政府が政治的に伊勢神宮を利用していたことに驚きました。私が「普通」だと思っていた神社でのしきたり(参拝前に手を清める、神楽殿でご祈祷する、など)も、明治以降につくられたものだと知り、「伝統って一体なんだろう」と考えさせられました。

 エチオピアに住んでいるとき、宗教について考える機会が多くありました。「かすみは何の宗教を信仰しているんだ?」とよく聞かれましたが、そのたびに「日本では歴史的に仏教と神道が混ざっていた背景があり、ほかの様々な宗教も受け入れ、長い時間をかけ生活に根付かせてきた。日々の生活の中で仏教や神道の教えが活きるときはあるけど、一つの宗教を信仰しているとは言えず、信仰の対象がいくつもある」と答えてきました。伊勢神宮にも、寺院の影響がみられる場所(宇治橋の擬宝珠)があり、「色々な文化を受け入れて混ぜ合わせてきた日本らしいな」と思いました。

 

 このフィールドワークを通して、「政治と伊勢神宮」「明治以前・以降の伊勢神宮のちがい」という視点が新たにでき、興味が湧きました。時間ができたときに、自分でも調べてみようと思います。(上野かすみ)

社会科授業づくり講座② 1月21日(土)

 今年度第2回目の授業づくり講座をアスト津ミーティングルームBで開催しました。今回は中西さん(高校支部)の「ウクライナ情勢について考える」「核抑止について考える」「修学旅行の取り組み」の報告から学びました。

 時間に制約のある進学校での情熱的な取り組みがすばらしく、子どもたちに考えて欲しいことや育てたい社会認識の方向性が明確でした。

 授業は、子どもにプリントを読ませて感想や考えを書かせるパターンですが、膨大な資料を読んでプリントに載せる内容を精選されていることに圧倒されました。産経新聞が「原発そのものが危険」という考えを出していることも知りました。「ウクライナが善、ロシアが悪という報道でいいのか」「核が現実的に抑止力になるのか」などの中西さんの問題意識もよくわかりました。

 コロナや管理職・行政に翻弄され、修学旅行先を長崎から広島に変更しながらも、子どもたちの学びのためにやり切った姿も心に残りました。

 質疑では、これだけの感想をもとにもう一度深める授業をしたらどうかということが話題になりましたが、進学校の時間不足や高校生の発達段階から配慮すべきことがあることもわかりました。

 こんな学習をできる高校生は幸せという感想も出され、充実した学習会でした。

 中西さん、どうもありがとうございました。

2・11に考えるつどい  2月11日(土)

 今年も実行委員会形式で「2・11に考えるつどい」を三重県教育文化会館6階多目的ホールで開催しました。23の賛同団体が集い、三重歴教協は事務局業務をおこないました。

 今年の講演は原田敬一さん(佛教大学)の「『戦争』はどう終わらせてきたのか」で、「戦争の終わらせ方を考えると戦争を起こせなくなる」「軍事力が強くなると外交力が弱くなる。外交で何とかしようとしても軍部が勝手に動く」という指摘は示唆的でした。

原田敬一さん
原田敬一さん

「欧米の国防予算には軍人の年金や遺族年金が入っているが、日本は入れていない」ということも初めて知りました。「世界は戦争違法化に向かっている。日本は国際連盟を脱退したが、ロシアは国際連合から逃げ出さない。国連でアメリカに反対する国も30~40あるのも力になる」と分析。「軍事力優先で国を作るのはダメということが各国の世論になっていて、民衆の力で少しずつ螺旋的に良くなっていく」という見通しに元気を頂き、より市民として成熟していく必要があると感じました。


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