2015年度の総会
3月21日(土)9時半~16時
アスト津4階 橋北公民館会議室4
2015年度の総会を開催しました。
14年度は、地域での学習会を4回、社会科の授業づくりの学習会を3回など、バランスのいい活動ができました。
15年度も引き続き、地域での学習会を松阪、志摩、四日市で3回、社会科の授業づくり学習会を9月に行うことを決めました。
2005年から10年続けてきた県歴教協の企画展は、戦後70年の節目で会員それぞれが多忙になるので、今年はお休みして来年度に再考することにしました。2017年は「青い目の人形」など人形交流90年に当たるので何かしたいという意見も出ました。
午後は記念講演会
「小学校の防災学習~減災は知識から意識につなげること」
(桑員支部 阪井勝さん)
土石流被害が深刻な校区でどのように防災学習をしたかを具体的に学びました。
・緊急時の対応マニュアルは、台風や地震、大雨、不審者などをB4版1枚にまとめて配布する。
・引き渡しカードはカードではなく地区ごとの一覧表にする。ラミネートして、油性ペンもつけておく。
・災害時に教職員は運動靴をはく。サンダルやスリッパは危険
・火事の時は外に上ぐつのままで出すが、地震の場合は上ぐつのままで下靴を持たせて出した方がいい。
・職員の机の下は空けておく。初期微動ですばやく入れるように。
・非常食は1袋を1人で食べると飽きるから、いくつかの袋を混ぜて食べる。
普段はなかなか気づきませんが、大切な対応策ですね。
阪井さんは東日本大震災の被災地を5回も訪ねられ、実状や変遷を詳しく調査・記録されています。調査でわかったこともたくさん教わりました。
中でも大船渡の津波動画は、町が根こそぎ流される状況が衝撃的でした。
参加者からは、ぜひ阪井さんに学校の講師に来てほしいというリクエストもありました。阪井さん、どうもありがとうございました。
50~60代が中心だった三重歴教協ですが、最近は20~30代の参加者が増えてきたのが嬉しいです。県の会員さんも14年度は59人になり、若い方も増えています。今年もたくさん学び楽しめる活動を計画していきますので、ご参加よろしくお願いします。
治田(はった)鉱山の調査
4月26日(土)9時~17時
治田鉱山はいなべ市北勢町新町にある、銅や銀を産出した鉱山です。今は操業していませんが、鉱山の遺構が残っています。
三重歴教協で99年に調査をしましたが、08年の土砂崩れ以降、土石流によって壊滅的被害を受けているらしい!という情報をいただき、再調査をしました。参加者は14人。車に分乗して青川渓谷に入ります。
現地に入って土石流の深刻さがすぐにわかりました。かつての渓谷や旧道がないのです。以前よりもずっと手前から歩きます。土石流後に造られた災害道路も途中で削られ寸断されています。
山裾いっぱいに広がる土砂。その下に高さ7mの堰堤も埋まっていると聞き、鉱山遺構の壊滅を覚悟しました。
遊郭のあった「下り藤(さがりふじ)」も土砂の下になり、三角形状の尾根と樹木でかろうじてここだとわかります。
近くにあったトロッコ用トンネル(左下写真 99年)もがけ崩れにより壊滅しています。少し登った所にあったトロッコの線路跡の石垣(左下写真 99年)も、線路跡の西端にあった道標も完全に土砂の下でした。
子どもたちが指さしている所には「大通洞坑(おおつうどうこう)」という巨大な坑道の入り口がありましたが、今は土砂の7m下に埋まっています。土砂をどければ坑道の入り口が出てきますが、途方もない作業です。
左下の写真は99年当時の「大通洞坑」の写真です。すばらしい遺構だっただけに残念です。
その上流にあった無縁墓、そして地蔵像の礎石もがけ崩れによって消滅していました。礎石は、丸い石の頂部に小さな円い穴が掘られ、そこに地蔵が据えられていました。左下の写真は99年当時の無縁墓と地蔵礎石の様子です。ただ、ここに置かれていた地蔵は早い時期に治田地区に移されていたので現存しています。
でも、残っているものもありました。
一つ目は日之岡稲荷です。社殿や平地が残り、吹き殻も拾えます。この平地は鉱山の事務所などが造られていた跡地です。ただ、稲荷の後ろは比高10m以上で川に落ち込む断崖で、その一部が崩落しつつおり予断は許しません。かつて鉱山の吹き殻がたくさん落ちていた場所も崩れて消滅していました。
さらに登っていくと、第一次精錬を行なった焼き釜跡に着きました。99年の調査ではここで2基の焼き釜跡を確認しましたが、下から見上げても石組みが崩落しているのがわかります。崖を登ると、北側の焼き釜が崩れていましたが、南側のは完存していたので良かったです。カマドや焚き口もしっかりと残っていました。
さらに北の方に、前回は気づかなかった焼き釜を確認できました。ですからこの場所には3基の焼き釜があり2基が残っていることになります。今回の一番の収穫でした。
99年には、すぐ近くに第二次精錬をした吹屋跡(左下写真)もありましたが、その一帯は大規模ながけ崩れを起こしていて確認できませんでした。
さらに少し上には銅鉱石が積み上げられている場所(左下写真)や平地、坑道跡もありますが、今回はそこまで行くことはできませんでした。
それから再び川に沿って延々と下り、車にたどり着いたのは夕方でした。
やがて今の河原にも草木が生え、新しい道や家ができ、地下7mに鉱山跡があることは忘れられるのでしょう。そしていつか地下から再び現れた時、それは遺跡と呼ばれるのでしょう。歴史的な時の流れも感じられた一日でした。
地域での学習会①(松阪・大台)
4月29日(水)10時~15時
午前中は、夏の宮城大会レポートから学びました。
提案レポートは3本でした。
○「後藤健二さんの行為は『蛮勇』か」(伊勢志摩支部・中西)
〇「三重県の『満蒙開拓青少年義勇軍』の調査」(三鈴支部・岩脇)
○「つながりの中で育つ。・学ぶ」(津松阪支部・草分)
午後は「三重日輪兵舎」「拓魂碑」(ともに大台町)を見学しました。
三重県の満蒙開拓青少年義勇軍や満蒙開拓団の基礎的な資料がここに揃っています。
1973年にこの建物が造られていたことにも驚かされます。
「三重日輪兵舎」の内部には、たくさんの写真や農具、当時の服や記録が展示されています。
青少年義勇軍の名簿も展示され、いつ、どこに、何人配備されたかがわかります。
貴重な資料を受け継ぎ、語り継ぎたいと思いました。
地域での学習会②(志摩)
5月9日(土)10時~17時
午前中は、夏の宮城大会レポートから学びました。
○「五感を使って地域学習」(伊勢志摩支部・田畑)
支援の必要な子どもに対しての具体的な手立て、視覚的な手立てがすばらしかったです。地域の中で学ぶと、今まで気がつかなかったことにたくさん気づけることもわかりました。
お昼の差し入れで「手こねずし」のおにぎりを頂きました。地元で食べる地域料理はさすがにおいしいです。
これも地域で学ぶ醍醐味の一つですね。
午後のフィールドワークの前に、会場近くのルピナス畑へ。地域の方が大切に育て、小学校の子どもたちも協力しているとか。
すばらしい景色と取組みを知り、これだけで来てよかったと思いました。来年も見に来たいです。
今秋に歴教協の東海ブロック(愛知、岐阜、長野、静岡)の皆さんを志摩にお迎えします。その時の見学地の下見をしました。
1854年に志摩地方は大津波に襲われ、現在の三陸のようになりました。津波碑は見学のポイントの一つです。
前回来た時より整備されて、見やすくなっていました。
宿舎は鳥羽市の相差(おうさつ)。ここは海女(海士)が日本一多い町で、海女文化資料館もあります。
東海ブロック集会のテーマは「津波碑と海女文化」。海の博物館や志摩市郷土資料館での講演もお願いしました。宿舎も海女さん三代が経営する有名な旅館です。
今から楽しみです。
地域での学習会③(四日市)
7月5日(日)10時~15時
午前中は、今年3月21日に開館したばかりの「四日市公害と環境未来館」を見学しました。
四日市市が四日市公害をテーマに学習の場をつくったことは評価できます。館の方に展示について詳しく解説して
頂きました。展示の工夫や苦労がよくわかりました。
特に公害裁判の映像はとてもわかりやすく、裁判の様子もよくわかりました。
見学の前に、今回の提案をして下さる萩森さんから、
○見学する視点を一つ持ちましょう
○この資料館に抜け落ちている大事な視点は何でしょう
などが書かれた見学シートを頂き、それが展示を見る大切
なポイントになりました。資料館の方にもそのことをきちんと伝えているのも素晴らしいと思いました。
これまで歴教協で見学してきた水俣や北九州の公害資料館と比べても、さらに充実・追加したい内容があります。
何度も訪れ、社会見学などで子どもたちと学習する中で、どう改善していけばいいかを資料館の方にも伝えていけたらと思います。
行政のつくる施設には、企業への配慮などたくさんの限界があります。それを少しずつ水俣のように克服しながら、公害の犠牲になった方や、命や生活を守るために運動してきた方に寄り添った展示になるように、一緒に考えていければと思いました。
萩森さんの愚直で毅然とした、でもしなやかな姿勢に学べました。
午後は、夏の宮城大会レポートから学びました。
○「戦争なんかしたくない~6年生と考えた平和」
(津松阪支部・原田)
夏休みを利用してお年寄りから戦争についての聞き取りをして、その後で国語の教科書の「平和のとりでを築く」の読み取りと意見文作り、それを学習発表会などで表現しながら学習を深めた後で社会科で15年戦争の学習。まさ
に総合的な学習だと思いました。
子どもたちの考えを大切にしながら、学習を進めていることも素晴らしいです。
参加者からも平和登校日のもち方や、平和教材の読み聞かせの取り組みなど、たくさんのアイディアが出されました。参加者も14名と盛会でした。
社会科授業づくり講座
9月12日(土)13時半~16時前
奈良歴教協の倉持祐二さん(京都橘大学)に「体で学ぶ小学校の地図学習」という講座をして頂きました。
「地図は、ちゃんと見方の訓練をしないと読めません。ナビばかり見ていると読めなくなるし、大学生でも地図を書
けません」という倉持さん。低学年、中学年、高学年と段階的にどんな力をつければいいのか、そのためにどんな学習活動をすればいいのかを、具体的に教わりました。
低学年は社会科ではなく生活科なので、意識的にしないと地図はできません。まずは、家から学校までなどのルートマップを、道をしっかり書くことや、曲がる時の目印を考えさせることが大切です。
3年生になると自販機地図、ポスト地図、ホタル地図、ザリガニ地図などのように目的をしぼった地図を書くこと、方位なども教えることが大切。4年生では市販の地図を使って等高線や縮尺、地図記号や広さを教えます。距離や広さの計算は難しいので縮尺に会った物差しや1ヘクタールの四角形を使うといいそうです。
班で楽しく作業もしました。何の作業かわかりますか?
地図に書かれている高さの上に、高さごとに色別にシールを貼ると、土地の高低がよくわかりました。「これ、おもしろい!」の声も。地図は2500分の1だと、子どもが自分の家を探せるのでいいそうです。
授業をつくるポイントやヒントをたくさん教えて頂き、若い先生も大満足の半日になりました。
倉持さん、どうもありがとうございました。
関ヶ原フィールドワーク
10月31日(土)10時~16時
関ヶ原歴史民俗資料館に10時に集合し、館内を見学してからフィールドワークに出発。関ヶ原はあちこちにのぼり旗が立ち、今でも「戦さ中」のようでした。
これから「世界三大戦場」として売り出すそうです。あとの二つは南北戦争のゲティスバーグとナポレオンのワーテルローとか。
観光地化の反面、「○○陣地跡」などの石碑は、再開発などで元の位置からかなりずれているものも多いそうです。
ここは「開戦地」の碑がある場所ですが、この碑は畑のはるか向こうの家の辺りから、圃場整備のために移動してきたそうです。
現地ならではのお話が聞けました。
次に見学したのは不破の関。関の北端に造られた土塁を見ました。三重県にある鈴鹿の関よりもはっきりと残っています。
そういえばヤマトタケルはこの近くで病気になり、鈴鹿の関の近くで死んでいます。古事記でヤマトタケルを創作する時に、関の存在も意識されたのかなぁと思いました。
不破の関の政庁跡です。発掘調査の後、畑に戻っています。農作業をされている方にお話を聞くと、2mぐらい掘れば今でも瓦が少し出てくるそうです。
不破の関や壬申の乱についての資料館もあり、とても面白かったです。
最後に見学したのは「玉の火薬庫」。大正初期に開設された陸軍の火薬庫です。あちこちに哨所や地下火薬庫、火薬庫の土塁などが残っていました。
古代、近世、近代の遺跡が密集する関ヶ原の魅力を十分知ることができました。
案内して頂いたボランティアガイドの細見さん、どうもありがとうございました。岐阜歴教協の皆さんも4名参加して下さいました。
東海ブロック集会
11月28日(土)~29日(日)
東海5県(愛知、岐阜、静岡、長野、三重)が持ち回りで企画する東海ブロック集会。今年は三重で開催しました。
テーマは「志摩の津波碑と海女文化」
旅館の予約がほぼ満席になるぐらい、たくさんの方に来て頂けました。
最初は志摩市歴史民俗資料館で崎川館
長から、江戸時代の志摩の津波被害や海女についての展示説明をして頂きました。
古文書などの地域資料を掘りおこしながら津波の状況を調べられているのが素晴らしかったです。
宝永、そして安政(嘉永)など志摩半島は大津波に襲われ、今の東北地方と同じような大被害に遭っていることがよくわかりました。東日本大震災の映像を見て、古文書の表現が誇張ではなかったと語られたのが印象的でした。
三重からは新田委員長が津波碑などの調査について報告をしました。
新田さんは志摩半島や熊野灘沿岸を中心に三重県全域の津波碑や墓石などの悉皆調査をされています。
津波碑などを読むと、大地震や大津波の惨状や「すぐに高い所へ逃げろ」という教訓を、後世のために石に刻んでいることがよくわかります。その思いを伝えていきたいです。
28日の最後に津波碑の見学をしました。
志摩市甲賀に残る「津波遺誡碑」です。3.11の後で、碑文を読みやすくする彩色がおこなわれ、解説板も建てられたそうです。
甲賀地区は安政(1954年)の東海地震の津波被害が甚大で、海の中には集落跡が沈んでいるそうです。その日の状況と教訓が詳しく「遺誡」として刻まれていました。
相差に宿泊しました。相差は海女の町、泊まった旅館も海女さんが経営されています。
夕食の時に海女さんのお話を聞かせてもらいました。サザエをとるには3年、アワビは5年かかるそうです。1年に2~3人は海で亡くなるなど仕事の厳しさも教わりました。
料理もすばらしく、他県の方々にも満足してもらえてよかったです。
満腹になった後で懇親会。
三重歴教協の中嶋さんが手料理をたくさん作って持って来て下さいました。
もう食べられないと言っていた皆さんも、中嶋さんから料理の説明をしてもらうと、ついつい手が伸びてしまいます。すごく美味しかったです。
各県からお酒、長野からは美味しいリンゴも頂き、食の面でも、とても充実した東海ブロック集会になりました。
29日には相差の海女文化資料館と「石神さん」を見た後、「津波流失塔」(鳥羽市国崎 常福寺)を見学。それから海の博物館へ行きました。
石原館長から海女文化を若い人にどう伝えていくかというお話をして頂きました。
海女文化を残すためにはアワビをどう増やすかがポイントであること、生計のために加工食品の開発が必要なこと、地区外から新規海女を募集する取り組みも始まっていることなどがわかりました。
津波碑や海女文化についてたくさん学べた2日間。三重の文化遺産の豊富さにも改めて気づくことができました。
お世話になった皆さま、本当にありがとうございました。
来年の東海ブロック集会は岐阜での開催。今から楽しみです。
熊野フィールドワーク
12月12日(土)
亀山から熊野まで2時間弱!!!
自動車道の開通で熊野がすごく近くなり、日帰りのフィールドワークもできるようになりました。
熊野は海と山が素晴らしいです。世界遺産の熊野古道もあります。
そして近代の朝鮮民衆への加害を学べる場です。
最初に鉱山資料館(熊野市紀和町)へ。
紀州鉱山は奈良時代は銀山、中世は鉛山、そして近世以降は銅山として栄え、金を採掘したこともあります。鉱山資料館ではその歴史や鉱物が学べます。
職員さんの楽しい説明を聞きながら銅鉱石などを見せてもらえますし、鉱石を割って鉱物を見つけることもできます。
バッテリーカー(トロッコ)で坑道も通りました。
次は選鉱場のあとへ。
巨大なコンクリートの建物跡が残っています。紀州鉱山の象徴的な遺跡です。
1942年に建設され、ここで銅鉱石を細かく砕いていました。
鉱山資料館には当時の写真やジオラマが展示されています。
紀州鉱山には1944年6月にイギリス兵捕虜300人が収容され、敗戦までに16人が亡くなりました。これは亡くなったイギリス兵の墓地です。
もともと別の場所にあり、地域の方が守って来られましたが、環境が悪かったために今の位置に移築されました。
イギリス兵関係者との交流も続けられています。
板屋共同墓地にある無縁塔です。
共同墓地に隣接する山林には、身寄りのない鉱山労働者がたくさん埋葬されました。山林を切り開いて墓地を拡張した時、たくさん出てきた遺骨をまとめて無縁塔に納めたそうです。
その山林に埋められた鉱山労働者の多くは朝鮮人労働者だったので、この無縁塔は朝鮮人労働者のお墓と考えられています。
無縁塔は1964年に石原産業株式会社紀州鉱業所が建立しています。
市民団体が建てた朝鮮人労働者の追悼碑です。
近くの川から拾ってきた石に、判明している朝鮮人犠牲者のお名前を書いてあります。
三重県に強制連行された朝鮮人労働者は1944年末で1767人。そのうち1225人が紀州鉱山で働かされていました。
熊野市街地にある木本トンネルにも悲しい歴史があります。1926年のお正月に、ささいなトラブルから地域住民が、木本トンネルの工事に来ていた朝鮮人労働者2名を殺害する事件が起こりました。木本事件です。
木本トンネル入り口では追悼碑が、極楽寺にはお二人の墓石が事件を物語っていました。
丸山千枚田です。すばらしい景観が広がり、ここに来るとパワーをもらえます。
七里御浜は石浜で、打ち寄せる波がすばらしい迫力です。熊野を代表する風景です。
美味しいみかんも満喫しました。
たくさん学べて、たくさん楽しめた熊野フィールドワーク。まだまだ見どころはたくさんあるので、またぜひゆっくりと訪れたいです。
社会科授業づくり講座
1月16日(土)
奈良良歴教協の倉持祐二さん(京都橘大学)に再びお越しいただき、「食べることから始まる楽しい歴史学習」講座をしていただきました。
倉持さんは、子どもたちに歴史を教える際には、自分の中で一つ、軸になるテーマを決めておくのだそうです。今回の講座で教えていただいたのは、「食」を軸にした「きょうのごはん なあに」という授業実践でした。「歴史の学習は、最初は体験的にする。『おもしろそう』という、とっかかりを作ることが大切」との言葉通り、赤米や飛鳥の蘇(そ)を実際に教室に持ち込んだ(蘇は実際に、子どもたちと一緒に作られたそうです)際のお話も聞かせていただきました。
中世になると、食材の加工技術が拡大します。クイズを交えながら、食材を加工するためのすりばち・すりこぎ等の道具が作られ始めたことを知る、古代の食事と比較して品数や量が増えたことに気づき、庶民が食材を手に入れられるようになったことを考えさせるなど、子どもたちが実感を伴って学べる授業を教えていただきました。
ほかにも、庶民の食事の様子が描かれたマンガを使って文明開化を学ぶ、疎開先の食事の記録から戦時中の食糧難について学ぶ、ジャガイモのルーツを探りながら世界の国について学ぶ…など、倉持さんのアンテナの高さと引き出しの多さにびっくりさせられました。
子どもたちにとってだけでなく、私たち教師にとっても「とっつきやすい」授業展開で、とても有意義な講座となりました。
倉持さん、遠いところをありがとうございました。