午前中は総会を開催。20年度の反省のあと21年度の役員を決定。事務局長が50代に、情宣や会計なども20~30代が中心になって事務局が若返りました。これからの活動と広がりが楽しみです。もちろん、これまで三重歴教協をつくってきたベテラン勢もまだまだがんばります。
午後は講演会。いろいろな団体が告知して下さり会場が密になることが予想されたので、同じ階のイベント情報コーナーに変更しました。
講演会「司法から見た日本の原発」
(元福井地裁裁判長)
「本件原発(註:大飯原発)の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失をいうべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている」
2014年に出された関西電力大飯原発(福井県)の運転差し止め判決は、いつ読んでも何度読んでも感動的です。この判決を出された樋口英明さんは三重県出身で、現在も津にお住まいです。
「家裁の親権問題など小さな案件でも迷うとドキドキするが、この案件は迷わなかった」と樋口さん。①原発事故のもたらす被害は極めて甚大 ②だから原発には高度の安全性が求められるべき ③地震大国日本で高度の安全性ということは、高度の耐震性があることにほかならない ④しかし、我が国の原発の耐震性は極めて低い ⑤だから原発の運転は許されない という明快な論理があったからだそうで、被告も「原発が危険かどうか」が争点だと一度も来なかったそうです。すべての裁判がこの論理で行われたら原発が許させる余地はないのに、そうならないことにも裁判官の前例主義など弊害があるそうです。
樋口さんは福島原発事故についても詳細に話され、あれは最悪の事故ではなく、2号機も3号機も奇跡的な偶然が重なってあれだけで済んだことを論証されました。「Fukushima50」が事実に基づかない映画であることもよくわかりました。
「知らないとどうしようもない。正しいことを伝えて知ってもらう。」と樋口さん。何度もお話を聞く機会を作りたいと思いました。
いつも原発の学習会でお世話になっている柴原洋一さん(原発おことわり三重の会)にも、講演後に30分のお話をして頂き、避難や保障などの現状がよくわかりました。「無理しない」「かっこつけない」「あきらめない」という言葉も良かったです。
三重には樋口さんや柴原さんをはじめ、原発に詳しい方がたくさんみえます。これからも学習を続けて、早く危険な原発を廃止したいです。樋口さん、柴原さん、どうもありがとうございました。
今年の第1回「地域での学習会」は、昨年コロナで中止になった鳥羽市。政府の愚策により三重でもコロナがこれまで以上に広がる中でしたが、無事に開催することができました。
■学習会(午前)
午前中は3本の全国大会レポートを提案してもらい、そこからたくさん学びました。
・「『ミシンクラブ』に誘われて」(伊勢志摩支部・田畑美代子さん)
退職して誘ってもらったミシンクラブ。そこで再会したかつての同僚や先輩、担任した子どもたちの保護者、そして40代になっている教え子たち。
その出会いから「障害」のある子どもたちが大人になった時にどう生活していくのか、また保護者の思いは何なのかなどを掘り下げて報告して下さいました。
地域にたくさんの受け皿ができていることが大きな進歩だとも感じました。これまでにない視点からの報告でした。
・「長崎から何を学ぶか~限られた枠組みの中での挑戦~」(伊勢志摩支部・中西弘行さん)
「ものを考えない大衆より、主権者意識のある人に」という思いは、修学旅行の取り組みでも継続されました。「2日目の平和学習は消化試合や」と言っていた生徒たちが、ハウステンボスよりも満足だったと振り返ることになる平和学習。生徒の心に火をつけたのは、周到な事前学習と確かな視点でした。
教師に主権者意識がどれだけあるかが大切ということを学びました。旅行会社に任せない修学旅行がすばらしいです。
・「機関紙『立ち上がる市民』を出しながら」(三鈴支部・萩森繁樹さん)
「民営化から市民の『公共財』を取り戻し、政治を変えている市民が世界にいる。市民が立ち上がれば地域は変わる」
まさに主権者としての活動です。2018年から「四日市公災害市民ネット」を立ち上げ、20数名の多彩な方々と月1回集いながら、四日市のコンビナート災害を中心に深めています。もし大地震や津波がコンビナートを襲ったらどうなるか。県も四日市市もそのことに思考停止になっている現状が信じられないし許せません。「立ち上がる市民」という機関紙名そのままの活動でした。
■フィールドワーク(午後)
午後は新事務局長の大西さんの企画で、鳥羽市内の江戸川乱歩館、鳥羽城址、門野幾之進展示室を見学しました。
鳥羽城本丸からの眺望は予想以上に良く、たまたま寄港していた豪華客船「飛鳥Ⅱ」も見れました。また、市民の要望で残された旧鳥羽小学校校舎も見学しました。
江戸川乱歩館は岩田準一さんの旧宅だったと知り驚きました。民俗学者の岩田さんは竹久夢二とも懇意で、夢二もこの家を訪れたことがあると初めて知りました。もちろん岩田さんと乱歩も懇意で、乱歩の小説に挿絵を提供しているそうです。
門野幾之進さんは15才で慶応の先生になり、千代田生命や日本徴兵保険などの会社を作ります。鳥羽の偉人というだけでなく、日本の近代とつなげて理解したい人物が鳥羽には多いことがよくわかりました。充実したフィールドワークでした。
今年2回目の「地域での学習会」は、昨年コロナで中止になったいなべ市。お天気にも恵まれ、ユキノシタ(鴨脚草)がきれいに咲く素晴らしい景観の賀毛神社社務所に集いました。
■学習会(午前)
午前中は2本の全国大会レポートを提案してもらい、そこからたくさん学びました。
・「『ちがい』のちがいを考える」(桑員支部・上野かすみさん)
19年から青年海外協力隊でエチオピアに行った上野さん。その経験から人権教育の授業を創った報告でした。勤務地とはまったく別の地域の小学校での出前授業という制約の中で、知恵を絞って取り組まれたことがよくわかりました。エチオピアの生活や文化・学校の様子は興味深く、比較することで日本の特色や課題も見えてきます。「ちがい」のちがいというキーワードの意味も報告を聞いて納得できました。貴重な体験はこれからの教育活動に大きなプラスになりますね。
・「地域の歴史や戦争遺跡を語り継ぐ」(桑員支部・民上眞由美さん)
退職して12年。民上さんはゲストティーチャーなどで今も子どもたちとつながり、人形交流や戦争遺跡、地元の治田鉱山など、掘りおこされたことを伝えています。さらに歴史講座を自宅でスタート。地域の親子などに地域や平和の学習をしています。員弁には「土の中の教育」という地域に根ざした教育活動がありますが、民上さんの活動に伝統的で原則的な員弁の取り組みを感じることができました。
■フィールドワーク(午後)
午後は民上さんが掘りおこされた地域教材や戦争遺跡を見学しました。
まずは桐林館(旧・阿下喜小学校校舎)。すばらしい木造校舎で、近くの山郷小学校にあった奉安庫もあります。ご厚意で扉を開けて中も見せてもらえました。
それから、下平地区にある被爆梵鐘へ。鐘にはたくさんの弾痕がついています。戦争中に塩浜の石原産業に供出で集められ、そこで空襲に遭いました。
東海三県の梵鐘は石原産業に集められましたが、三重は近いので檀家が戦後塩浜まで取り返しに行っている例がいくつかあり、被爆痕も残っています。
そして新町の甘露寺。新町は治田鉱山の開発によって江戸時代にできた「新しい町」です。甘露寺の梵鐘は治田鉱山から出た銅で作られています。銘文を見た参加者が、終了後に鐘を作った桑名の鋳造師のご子孫と連絡を取って詳しい来歴を報告して下さいました。歴教協の強みです。
以前に訪ねた時より駐車場や案内板が整備され、地元が大切に発信されていることがわかりました。
地域の歴史を掘りおこす楽しさや大切さを感じることができました。
特に、この下平説教所の被爆梵鐘は、弾痕が激しく残り、県内の被爆梵鐘の中でも一番迫力を感じるものです。
次は奥村神社。ここの本殿は治田小学校の奉安殿だった建物です。(写真下)
最後は片樋にある「マンボ」。マンボとは横井戸で、縦の井戸を掘るのが難しい扇状地で、地下水脈まで横穴を掘って水を得た先人の知恵です。穴を掘る技術は治田などの鉱夫に教わり、マンボという言葉も「間風(まぶ。間歩とも)」という鉱山用語に由来します。
今年3回目の「地域での学習会」は津市立栗葉小学校を会場におこないました。久しぶりの小学校での開催でした。また午後も栗葉小学校の校区を中心に見学し、校区の中にはたくさんの歴史的価値や教材的価値のある場所があり、それを掘り起こすことが大切だと再確認できました。
■学習会(午前)
午前中は2本の全国大会レポートを提案してもらい、そこからたくさん学びました。
・「全国13の国立ハンセン病療養所を訪ねて」(三鈴・岩脇 彰さん)
青森県から宮古島(沖縄県)までの13の国立ハンセン病療養所すべてを見学し、そこから見えてきたことや考えたことの報告でした。ハンセン病に関わる問題は病気そのものではなく、強制隔離・絶滅という国の政策によって偏見が助長され、患者さんや家族に大きな犠牲を強いたことがわかりました。ハンセン病撲滅を優先するあまり、患者や家族の人権をまったく考えなかったことが元凶です。子どもを産むことを認めた療養所や、地域と密接につながっていた療養所があったことも初めて知りました。
・「なーくん、ありがとう! うなちゃん、がんばれ!」(津松阪・草分京子さん)
校区にあるウナギ養殖場を訪れ、小学校2年生の子たちがウナギをつかまえたり、食べたりしながら地域のことを学びます。そして絵本『うなぎのうーちゃん、大ぼうけん』を読んで学習したことや思ったことをもとに、学級で『なーくん、ありがとう! うなちゃん、がんばれ!」という絵本の続編を作りました。ウナギ養殖業者さんともつながり、かつては校区でたくさんウナギが採れたことも知り、生活科だけでなく中学年の地域学習や環境学習にも発展できるおもしろい教材でした。
■フィールドワーク(午後)
一見普通の農地ですが、戦争中の1945年6月26日に白山町二本木上空でB29と空中戦をした日本軍の戦闘機がここに墜落したそうです。こういう事実はその地域が調べないと消えてしまいますので、こんな地道な掘り起こしが大切です。
次は「談義穴」。寛政の一揆の時に近くの庄屋がここに集まって談義し藩への請願書を作ったそうです。山深い所に残る穴は当時の緊迫した様子を感じられました。近世の農民の姿を学べる教材です。
おまけで、以前から話題になっていた旧稲葉小学校の校舎も近くなので見学に行きました。他の地域では登録文化財になっているような木造校舎が残されていました。何かの形で活用できればと感じました。今回も充実した現地見学になりました。
七栗神社の後、入田古墳へ。横穴式石室と石棺が残っていました。天井石が無くなっている分、子どもたちも安全に見学できそうです。他にも日向古墳群も見学しました。
最後は「茶屋の道標」。「さんぐう道」「なら大さか道」「すぐ津道」と深く刻まれ、この地が交通の要所だったことがわかりました。
校区に残るものを教材としてしっかり掘り起こしている三谷さんの仕事ぶりもよくわかりました。
今年最後の「地域での学習会」は名張での開催。午前中は全国大会レポートから学びました。
■学習会(午前)
・「特別支援学級での介助の支援とは」(三鈴・中嶋千絵さん)
19年度は小学校、20年度は中学校で介助員をされた中嶋さん。「介助する子と学校で会ったら、子ども食堂で知り合いになっていた子だった」というエピソードが活動範囲の広い中嶋さんらしかったです。
子どもの姿から教育活動を考えて保護者とつながり、教材づくりも授業も恐らく担任より上手な中嶋さんが、介助員として活動するのはかなりのバランス感覚が必要で、担任や管理職との対立もけっこうあったそうです。
でも、ネパールから来た子どものために、登山でネパールに詳しい地域の方とつなげたり、原学級でネパールの本を読み聞かせたりと、中嶋さんらしい実践をお聞きできました。
圧巻だったのはこのノートや袋。中学校で介助した子が描いた絵を気に入り、中嶋さんが作りました。商品化できないかと模索中だそうです。
袋の中には、中嶋さんが作った「蕎麦団子」が2つずつ入っていました。
地域で食や薬草にこだわり料理教室をされている中嶋さん。団子もその時に作ったものだそうです。
今は高校で現代社会を教えている中嶋さん。ネパールの子のお母さんをゲストティーチャーで高校に呼ぼうと考えています。これからは「障害」のある子の就労も視野に入れて、株式会社を作れないかと考えているそうです。介助、高校、学童、食や薬草、調理師などがクロスオーバーする取り組みでした。
■フィールドワーク(午後)
まずは名張市図書館の江戸川乱歩コーナー。乱歩は名張市で生まれた後、亀山に住み、名古屋で育って、鳥羽で働きます。4月に鳥羽の江戸川乱歩館を見たので、県内の展示はこれでコンプリートです。そういえば、18年4月には津にあるお墓も見学していますのでウェブをご覧下さい。
美旗古墳群の貴人塚です。いつ見ても端正な形をしています。近くには美旗用水が作られていて、延々と続く堤がすばらしいです。最近の道路工事で堤を切った時にサイフォン式の施設が作られているのも面白かったです。三河地震や南海地震で繰り返し倒壊した常夜灯もありました。
美旗古墳群最大の前方後円墳である馬塚へ。ちょうど雨上がりだったので面白いように埴輪片を表面採集できました。それどころか、円筒埴輪が原位置に残っているのも発見。馬塚の埴輪で原位置がわかっているものはこれまでにないそうなので、緊急に埋蔵文化財担当者に連絡することになりました。得難い体験でした。
最後に美旗市民センターにある展示室で古墳群の遺物や模型、伊賀鉄道の線路地図などを見て解散しました。内容の濃い一日になりました。
8月5日(木) 呉から江田島、船で広島へ
最初に呉の大和ミュージアムへ。戦前の日本の造船技術の高さと呉市の「輝かしい歴史」がよくわかりましたが、戦争や植民地支配など日本の近代を考える展示はありませんでした。今も自衛隊や軍事産業に支えられている市なので、限界があるのでしょうね。
呉と倉橋島の間の海峡は「音戸の瀬戸」と言い、川のように流れが急です。今は2本の橋で陸続きになっていますが、行き交う船も多いです。
平清盛が掘削したという伝説が江戸時代に作られています。
江田島からフェリーで広島(宇品)に渡りました。40分の船旅が楽しく、海や島を見ながらかつての村上水軍や北前船の時代を考えていました。今でも陸路より島伝いの海路の方が近くて便利な所も多いだろうなと思いました。広島や呉を海から見れて良かったです。
8時15分に爆心地の島内科医院前へ。その時刻には多くの方が集まっていて、近くの病院の看護師さんたちも外に出て来て黙祷をされていました。ただ、かつて聞いたサイレンの音は今はなくなっていて、路面電車も停止することはありませんでした。愚直に守られていると思っていた追悼が無くなっていたのは残念でした。
「呉湾艦船めぐり」に参加しました。呉に係留されている自衛艦や潜水艦を遊覧船から間近に見れます。説明は元自衛隊の方がされていました。自衛隊のPR活動の一つだなと、冷めた目で見ていましたが、巨大な灰色の軍用船がたくさん並んでいるのは、非日常的な光景でした。
江田島の「砲台山」に行きました。日露戦争の頃の砲台で榴弾砲などの砲座や弾薬庫が残っていました。江田島はかつて海軍兵学校があり、海軍の島でした。それらの敷地は自衛隊や米軍が使っていて、今回は見学できませんでした。
8月6日(金) 広島市で
「8月6日に広島市にいる。8時15分に爆心地に立つ」がこのフィールドワークの原点です。
8時前に原爆ドーム前に着き、平和集会と右翼の妨害を見ました。「8月6日は慰霊の日。静かに祈ろう」という右翼の看板は一見もっともですが、それを訴える拡声器がやかましくて苦笑。
平和公園をじっくり歩きました。どの慰霊碑でも集会が行われたり、献花されたりしていました。関係者の方も集まってみえるのでお話を聞くこともできました。平和記念資料館を見終わって外に出たら被爆ピアノの生演奏が始まるなど、被爆地ヒロシマの学習を集中的に濃密にできる日だと実感しました。韓国人慰霊碑が公園内に移されていたのも嬉しかったです。
午後は広島歴教協の辻隆広さんのご案内で、比治山や陸軍被服支廠などを見学しました。
最初は段原地区の原爆慰霊碑と明泉寺の山門。原爆慰霊碑は平和公園だけでなく、各地区にもあること、それだけ被害が甚大だったことを知りました。
比治山の放射能影響研究所はかつてのABCC。今もアメリカと日本両政府が運営する研究機関です。運よく広報担当の方から研究内容の推移、「黒い雨」訴訟のこと、そして研究所の考え方などを詳しくお聞きすることができました。資料もたくさん頂きました。どうもありがとうございました。
陸軍被服支廠のレンガ建物は、最大級の被爆建物です。広島県は一部破壊を発表しましたが、市民や全国からの声で撤回し全面保存を決めています。ここでは戦争に行く兵士のための軍服などを作っていて、近くには兵士や軍馬の食料を準備する陸軍糧秣支廠もあり、戦争を衣と食で支えていた「軍都広島」の様子がわかりました。
8月7日(土) 福山市へ
最初に訪ねたのがホロコースト記念館。私設の記念館です。創立された方がアンネ・フランクのお父さんと出会ったことがきっかけだそうで、現地からの豊富な資料に圧倒されました。ホロコーストについて日本で深く学べる施設で、多くの方に訪訪ねてほしいと思いました。
明泉寺の山門も被爆建物に指定されています。爆心地から1900mですが、比治山が山門を守りました。地域の歴史や建造物をきちんと掘り起しているのが、さすが歴教協だと思いました。
放影研のすぐ近くの陸軍墓地へ。日清戦争の時に広島に大本営が置かれ、その時の墓地なので三重県人の墓石もありました。その後、高射砲陣地になったため遺骨は合祀され、枕崎台風で崩落し放置されていましたが、地域の方が墓石の整備をして今のような姿になりました。墓石の下に遺骨はありません。とても景色が良かったです。
最後に訪ねたのが凱旋塔。日露戦争の凱旋門は三重など全国3ヶ所に残っていて、4つ目かと思いましたが、さらに古い日清戦争の時のものでした。
広島が日清戦争の時に大本営だったことを物語る巨大な塔でした。
被爆地「ヒロシマ」は、日清戦争からずっと陸軍の重要な拠点である軍都「廣島」でもあったことがよくわかりました。辻さん、すばらしいご案内をありがとうございました。
午後は鞆の浦。北前船や朝鮮通信使ゆかりの港町です。古い街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区にもなりました。朝鮮通信使が絶賛したという対潮楼からの景色もすばらしかったです。
8月8日(日) 大久野島
7日は竹原に泊まり、8日は忠海から船で大久野島へ。戦争中は毒ガスを製造し、地図からも消されていた島ですが、今はウサギで有名な観光地です。
島の各地に毒ガス製造の戦争遺跡が残り、説明板も充実していました。
鞆の浦に橋を架けることをめぐって、利便性か歴史的景観・観光かで大きな問題になりましたが、今も地域にはしこりが残っているという話を聞きました。蔵を活用した素敵な喫茶店など、若い人たちが町並みを活用していることもわかりました。
鞆の浦では薬膳酒「保命酒」が有名で、現在4種類が作られています。その試飲も楽しみました。
資料館の展示も充実し、毒ガスの被害や加害責任もきちんと書かれていました。
ここで働いていた人の90%が毒ガスの被害を受け、その後遺症は完治しないそうです。仕事の内容も極秘で、労働環境が過酷で非人間的だったこともわかりました。
とても充実した3泊4日の見学でした。
会場のアスト津がコロナにより使用できなくなったため、この日の開催は見合わせました。
2022年1月23日(日)に開催予定です。
(別項をご参照下さい)
三重歴教協は、四日市公害について毎年学習する場をもっています。今年は学習会とフィールドワークを開催しました。
午前は萩森さん(三鈴支部)が中心になって活動をしている「四日市公災害市民ネット」の例会に参加。
「気候危機と2030年の世界 今『行動の10年』」(松岡武夫さん)の報告から学びました。
深刻な地球温暖化に対して各国が削減目標を決めているのに、日本はかなりいい加減。三重県はさらにいい加減、四日市はもっといい加減で。この国の政治は企業のご都合主義に抗えていないことがわかりました。企業中心の世の中を変えるには住民による再生可能エネルギーの自治という対光軸も見えました。とても深い学習ができました。
午後は萩森さんのご案内で現地見学。
まずは磯津漁港でバッチ網漁の方法や漁業の現状を聞きました。磯津では温暖化による漁獲量激減と高齢化が深刻だそうです。
次は平和町の跡。戦争と公害に翻弄された町の歴史を知りました。自分の町のすぐ横に来た石油化学コンビナート、そして亜硫酸ガス。都市計画のまずさも感じました。
最後はポートタワー。14階の展望台からは第3コンビナートを一望できます。工場群を見ながら、そこで働いてみえた方のお話を聞きました。
「あの赤い煙突は発電所。パイプラインは第1コン
ビナートや第2コンビナートとつながっています。」「フレアスタックから炎が出るのは1年間に数回ですが、テレビなどはそこを映すから、いつでも炎を出しているように思われます」など、企業内部ならではのお話を聞かせて下さいました。その方も今は萩森さんたちと一緒に四日市の公災害を考えていて、この会の層の厚さと見識の広さを感じました。海岸に並べられた石炭や塩の巨大な山も初めて見て、その意味を知る事ができました。
広大な工場群を南海トラフ地震が襲ったらと考えると怖くなります。万全な対応策を市や県は作ってほしいと思いました。
東海5県(愛知、岐阜、長野、静岡、三重)が持ち回りで開催している東海ブロック集会。今年は岐阜県で開催し、28名が集いました
テーマ「東西文化が出会う町 関ヶ原 関ヶ原の戦いと 東洋一の火薬庫を訪ねる」
20日は大垣青年の家で15時に開会。地元で調査や発信をされている草野道雄さんが「関ヶ原に見とる 日本の近現代」という模擬授業・講演をして下さいました。鉄道を視点にした関ヶ原の歴史、明日訪ねる「玉の火薬庫」の状況と歴史的背景、関ヶ原古戦場の近世・近代の変遷と顕彰など、興味深いお話を聞くことができました。
夕食を取りながらの各県交流のあと、来年の全国大会(愛知/東海大会)に向けて5県会議を開催。19時から21時過ぎまで熱心な討論が続きました。5県会議も今回で19回を数えました。
21日はフィールドワーク。まずは、関ヶ原古戦場を巡りました。東首塚はどんどん狭くなり、19世紀初頭には消滅する心配をされていたこと、床几場が整備されたのは江戸末期であることなど、関ヶ原の戦いがいつ、どのように継承されてきたかを学びました。
石田三成の陣地跡から関ヶ原全体を見渡し、各陣地の場所を教わると、関ヶ原の戦いのスケールや兵の動きなどを具体的にイメージできました。
また、最古の東海道線の跡が道路に残っているなど、歴教協らしい見学ができました。
次は「玉の弾薬庫」。関ヶ原の玉地区に陸軍が明治期に作った弾薬庫で敗戦まで使われました。弾薬庫には地上式、半地下式、地下式があり、戦争末期には地上式倉庫の弾薬を移動するために素掘りの穴が掘られました。地上式倉庫の周りに作られた土塁が今も残っていて、その高さに驚きました。半地下式も地下式もしっかり残っていました。
また、近くの山には「陸軍 境」と書かれた石柱や鉄条網のコンクリート柱がたくさん残っていて、規模の大きさと保存状況の良さに驚きました。
戦争遺跡としてもすばらしい場所でした。
関ヶ原の戦い、そして関ヶ原の近世と近代を学べた今回の東海ブロック集会。とても充実して楽しかったです。講演会とフィールドワークをして下さった草野さん、そして岐阜歴教協の皆さん、本当にありがとうございました。
全体で28名、三重からは8名の参加でした。
2022年の東海ブロック集会は11月19日(土)~20日(日)に長野県で開催されます。どこに行けるか楽しみです。林檎も買いましょう。
冬のフィールドワークは久しぶりの飛鳥へ。三重歴教協としては2004年以来です。若手会員のリクエストで実現しました。
最初に訪ねた飛鳥資料館では、かつて訪ねた時よりも展示が数段良くなっていて、最近の調査成果を反映させた展示内容と、わかりやすく伝える展示方法の改善に驚きました。ここだけでも半日過ごせるねと言いながら、1時間ぐらいで見学しました。
ぜひまたゆっくりと訪ねたいです。
飛鳥寺と水落遺跡を見学したあと、飛鳥の蘇を買いに行きました。販売している所は明日香村から少し北に行った橿原市郊外にありました。
飛鳥にはあちこちに新しい直売所や観光施設ができ、観光に力を入れていることがわかります。
飛鳥はイチゴなどの農作物の生産も盛んで、直売所には美味しそうな野菜などがたくさん並んでいました。
近在の方は明日香村まで野菜を買いに行くこともあるそうです。
昼食後、石舞台古墳、天武・持統天皇陵、キトラ古墳と壁画保存管理施設、高松塚古墳と壁画館を見学しました。終末期の古墳が集中する飛鳥は石舞台古墳のような横穴式石室からキトラや高松塚のような横口式石槨への変化がよくわかります。
また、明治期の陵墓指定がいかに科学的でないかがよくわかる場所でもあります。
久しぶりにキトラ古墳と高松塚古墳を見ましたが、壁画修復のために石室を摘出したことで墳丘の整備がされ、外観がかなり修復されていました。
コロナのため開催できなかった9月の授業づくり講座を1月23日に開催しました。
今回のテーマは「地域に根ざした平和教育」。
講師は早川寛司さん(桑員支部)。初任の時から今まで取り組んできた実践をもとに、授業づくりの方法やヒントを語って頂きました。
最初は「地域に残る戦没者のお墓・慰霊碑からこんな授業ができる」。墓地で戦没者のお墓を見つける3つのポイント、まとめる時のポイントを教えてもらった後、まとめの授業例。発問として用意された「戦争の恐ろしさとは何だろう」「二度と戦争が起こさないためには、どんなことを『きまり』として決めておくとよいですか」は、あらゆる戦争学習に使えると感じました。子どもたちが見つけた『決まり』を日本国憲法に結びつけていくのもすばらしかったです。
次に「四日市が原爆投下の練習台に」。早川さんが掘りおこした模擬原爆パンプキンと四日市での被害をもとにした授業プリントと授業記録です。
事実を説明した後、「今、ここで出されたような悲しいこと、おそろしいことが二度と起こらないようにするためには、どうしたらいいと思いますか」という発問をすると、子どもたちからたくさんの発言が出ます。それをまとめながら日本国憲法の条文とつなげていく早川さん。
発問だけでなく、子どもへの切り返しが上手なのは、自分で掘りおこした知識の深さと、しっかりした授業のねらいがあるからこそだと思いました。
次の「ヒロシマ『よしこちゃんをころしたのはだれだ!?』」でも、映画「黒い雨」のシーンを見せ、佐藤智子さんの『無題』という詩を読みます。そして「よしこちゃんにあやまらなければならないのはだれなの?」と問いかけます。この発問もいろいろな戦争被害に使えますね。
最後に四日市公害と戦争を結びつける取り組み。「平和教育=戦争学習ではない」と早川さん。大事な視点です。「コロナと戦争」など、共通するものがたくさんあると学びました。
それぞれの実践を30分~45分で計算して話して下さったのもさすがで、タイムマネージメントの大切さも感じました。
早川さん、どうもありがとうございました。
今年も23団体で実行委員会を作り、「2・11に考えるつどい」を開催できました。
今年は加藤圭木さん(一橋大学)に「だれが日韓『対立』をつくったのか」という講演をして頂きました。
オミクロン株の蔓延で加藤さんに、職場から都外への移動制限がかかったために、急遽ズームでの講演に切り換えましたが、アストホールさんの完璧な設備と、実行委員会の西尾さん(県平和委員会)のおかげで無事にハイブリッド開催ができました。
司会や受付などの運営は、ほぼ歴教協が担当しました。
加藤さんのゼミナールでは、今の日韓関係のいびつさの原因を究明し、学んだことを同年代の人たちに向けて発信しています。日韓の「対立」はなぜ起こっているのかを、わかりやすく話して下さいました。
19世紀から日本は朝鮮を侵略し、植民地化しました。植民地化政策によって朝鮮の農民は貧困生活に追い込まれ、大日本国憲法も朝鮮には適応されず選挙もありませんでした。日本の炭鉱等での過酷な労働や「従軍慰安婦」も、国際的には「奴隷」に相当します。
このような植民地支配について、人権問題としてきちんと捉える大切さがわかりました。
韓国から留学生が来ると、人権意識の差があり過ぎて日本の学生と対話にならないそうです。人権問題に関心をもつと、日本では「意識高い系」と誹謗されますが、韓国では「何で意識が高くて悪いの?」「デモってかっこいいじゃん」と一蹴されるそうです。おかしな本や酷いウェブに影響されないように、日本でも社会問題について話す場を日常的に作る必要を感じました。右のウェブ「FIGHT FOR JUSTICE」も紹介して下さいました。
加藤さんどうもありがとうございました。